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ただ眠いんだ

When I'm in the middle of a dream...

小学生のころ、作文が嫌でしかたなかった

誰に頼まれるでもなくこうやって文章を書いて垂れ流しているけれど、小学生のころは作文を書くのが嫌で嫌でしかたなかった。今になって考えるとそれはたぶん、感想文を書くのが嫌いだったのだろう。今やレビュー記事とか書いてるのにね。

小学校で書く文章というのは、だいたいが「運動会の感想」とか「音楽会の感想」というような「○○の感想文」だったと思うのだけど、それを書くのが苦痛だった。
僕は運動が苦手なこともあるし、クラスのみんなでがんばって…というイベントにあまりなじめなかったし、みんなで合唱!みたいなのもあまり好きではなかった。
だから感想文にありのままを書くと「もう練習しなくていいからせいせいした」とか「毎日音楽と体育がなくなるから嬉しく思う」などなどこんな調子になってしまう。たぶん書いたら怒られただろうなあ。 最終的になんとか絞り出したうれしかったことを、限界まで薄めて、文字もちょっと大きめに書いたりなんかしてなんとかかんとか乗り切っていた。


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講演会の感想というのも嫌だったなあ。
その講演会自体にまったく興味が持てなかったとしても、決まった文字数というか、行数を書かなければいけなかったのが辛かった。
感想文だからといってありのままを書いたりしたとしたら「これは相手の人も見るのよ!」なんて言われたりしてね。
「感謝状」とか「推薦文」とか、そういったものを書けといわれたらそれなりのものを書いたかもしれないけど、「感想文」なんだからありのままを書いてもいいじゃないか。

小学生に強制的に感想文なんか書かせても「楽しかった」とか「すごいと思った」とかそれくらいの文書表現しか持ち合わせていないのだから、読む側だって察してしまうと思うんだけど。
もし相手方がしっかり読んでるのだとしたら体裁だけ整えたってバレるだろうし、相手方が読みもしないのであればそもそも要らない感想文じゃないか。

そんなこんなで、小学生の頃の僕は作文を書くのが嫌いになってしまったのだ。
読書感想文なんかも嫌いだったのだけど、きっと感想文を書け!と言われたら全部を褒めなくてはいけないと思っていたからかもしれない。課題図書がつまらないと思っても決してそんなことは許されなかっただろうし。

感想を聞くなら、ある程度なにを書いてもOKということにしてもらえないと、それはおそらく感想文にはならないし、文章を書くことに対する忌避感を呼ぶだけだと思うんだけどなあ。
どうなんだろうその辺。小学校のガチガチ縛りの感想文で作文が好きになりました!なんて人はいるんだろうか。

で、僕がどうやって文章への苦手意識を克服したのかと言えば、それはたぶんインターネットなのだ。Twitterを始めてからは文章を書くことを嫌だと思うことは格段に減った。ある程度は好きにかけるからかなあ。
理系に進んだというのも大きかったと思う。理系というのはレポートやらなんやらで結構文章を書かないといけないし、下手な感想とか入れずに書くのが重要だし。それでやっと文章への苦手意識が抜けたんだと思う。
実に10年もかかって苦手を克服したら、なんだかいろいろ書いている今日この頃である。わからないものだ。